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( 2019.06.24 )


 最近の、幼児らに対する虐待や引きこもりをめぐる諸事件は、心を締めつけてやまない。 どうしてこのような無残な社会となったのであろうか。

 遠い昔、人類は必死で生きていた。 そのとき、己の身を守ることが第一であったことは言うまでもない。 人類は、まず生物であり、利己主義であった。 これは生物の基本である。

 しかし、集団生活の人類としては、一般生活においてこの利己主義を抑える必要があった。 その形は二大別できる。

 一つは狩猟民族系。 彼らは獲物の獲得経験から個人能力を重視してきたので、自然とリーダーは、能力第一となる。 その集団の安定には、利己主義は許されず、自律が求められ、そこから、後に自立する個人主義が生まれ、一般化されてゆく。

 いま一つは農耕民族系。 農業は集団作業であり、血縁で結ばれた共同体生活となり、リーダーは血縁者の本家となる。 もちろん利己主義は許されず、本家を中心とする親族会議がことを決してゆく。 すなわち一族主義(家族主義)であり、儒教はその典型である。

 時を経て近代に入ると、個人主義が産業革命と連動し、多くの自動機械を作ってゆく。

 そうした新奇な機械をの当たりにしたのが、幕末・明治初期の人であった。 そして大いなる誤解をする。 こうした機械文明を生み出した欧米文化に関心と敬意を抱き、その背後にある個人主義さらには民主主義を日本に導入すべきだと思った。 当時の欧米派知識人がその典型。

 それから150年。 その間、個人主義を広め、家族主義を遠ざけてきたのであった。

 しかし、欧米と異なった歴史と環境との中では、自律・自立・自己責任の個人主義は育たず、個人主義とは似て非なる利己主義を蔓延させてきた。 のみならず、核家族を一般化し、伝統的家族主義を破壊し尽くしてきたのが、今日の日本国である。

 その中で育つ子供は、いったい何にるべきなのか、分からなくなっているのではなかろうか。 もちろん戦後に成長した大人たちも同様であろう。

 自己責任の個人主義に徹するのならばそれはいい。 伝統的家族主義に従うのも見識である。 いずれにしても、それは利己主義の否定だからである。

 けれども現状は野放しの利己主義のカオスすなわち混沌となってしまっている。

 では、どうすればよいのか。

 老生はこう思う。 法的には個人主義を変更することはほとんど不可能。 とすれば、それはそのままとして、一方、倫理的には、学校教育を中心にして長い歴史のある家族主義を導入すべきではなかろうか。

 幼児を虐待する者は、儒教が説く生命の連続を知らない。 引きこもる者は、儒教の根本の無私の一族愛を知らない。

 こうした危機にある今こそ、日本人が理解できる儒教を媒介にしての日本再生を図るべし。

 桓寛かんかん『塩鉄論』論菑ろんしいわく、法令は悪を治むるの〔道〕具なり。 しかれども至治(最善政)のふう(姿)にあらざるなり、 と。



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