人間に関わる諸々の問題について科学的に考えるためには、「 人間とはどういう存在か 」 を明らかにした科学的な人間観をふまえなければならないが、これは必然的に「 生命の歴史 」 の問題につながっていく。 例えば、人間社会においてなぜ《 政治 》が必要とされるようになったかは、サルと人間との区別、すなわち「 生命の歴史 」 においてどのようにサルが人間になったのかがわからなければ理解できない問題であり、これは《 言語 》であろうが《 教育 》であろうが同じことなのである。 このように、「 生命の歴史 」 、すなわち生命体が単細胞から人間までどのように発展してきたのか、その論理的な流れを理解することが欠かせないのである。



 人間という生命体の特殊なあり方を的確に把握するためには、まず生命体とは何かを明らかにしていかなければならない。
 生命体は、単純な物質( =非生命体 )としての地球の生々発展の特殊な状態から、いわば生命現象を内に含む物質体として次第に分離してできてきたものである。 したがって、生命体とは、非生命体の特殊な存在様式として位置付けることができる。 それでは、生命体の持つ特殊性とはどのようなものなのであろうか。
 この世界を形成しているあらゆるものは、すなわち生命体も非生命体も、常に変化( =運動 )しているという点で共通性を持っているから、生命体の特殊性とは、その変化( =運動 )の構造の特殊性にあると考えることができる。 すなわち、「 各瞬間に同一のものでありながら、しかも他のものである」( エンゲルス『 反デューリング論 』 国民文庫版187ページ )という矛盾した形態を維持しているのが生命体なのである。 生命体は、部分的・特殊的には常に変化しつづけることにより、一般性レベル・本質レベルでは変化しない状態を維持しているのである。
 これに対して、非生命体はこのような運動形態を持っておらず、一度変化してしまったものがもとの形に再生することはない。
 このように、生命体は非生命体とは異なった特殊な運動形態を持っているのだが、この特殊な運動形態=生命現象を維持している構造が《 代謝 》である。



 代謝とは、生命体のみに特有な構造であり、代謝を行うことによってこそ生命体は生命現象を呈している。 この代謝の構造を過程的にみると、《 摂取 → 自己化 → 排泄 》と捉えることができる。 摂取とは生命体が自らが生きるために必要な物質を外界から取り入れる過程であり、排泄とは生命体が不要になった物質を外界にもどす過程である。 この両者を媒介するのが、生命体の細胞内における代謝過程である《 自己化 》であるが、この自己化は、同化と異化とを過程において統一したところに成立する概念である。 すなわち、自己化という場合には、同化すなわち生命体そのものをつくる過程( =生産過程 )と異化すなわち生命体そのものを使う過程( =消費過程 )とを媒介関係としてのみとらえるのではなく、同化が直接に異化であり、異化が直接に同化であるという直接的同一性においてもとらえているのである。
 ( 注 )マルクスは、「 経済学批判への序説 」 において、生産と消費の関係について論じ、 まず生活資料の生産が行われ次にそれが消費されるという媒介関係だけでなく、生活資 料の生産が原料の消費でもあり( 生産的消費 )、生活資料の生産が人間の生産でもある( 消 費的生産 )という直接的同一性が存在することを主張した。 マルクスはこのような生産 と消費の関係を概括して、「 両者のそれぞれが直接に他方のものであるだけでなく、ま た他方のものを媒介するだけではなく、両者のそれぞれが、自分を完成することによっ て、他方のものをつくりだすのであり、自分を他方のものとしてつくりだすのである」 ( 『 経済学批判 』 国民文庫版283ページ )と述べているが、これこそが弁証法の三大法則 の一つ「 対立物の相互浸透」の論理構造である。 マルクス、エンゲルスは、生産と消費を 過程において統一して捉えて《 生活の生産 》という概念をうちたてたが、これと同じよ うに、同化と異化を過程において統一して捉えたところに成立する概念が《 自己化 》な のである。
 生命体はそもそも地球そのものの生々発展の特殊な状態から分化してきたものであるから、代謝によって常に自己を更新することにより、外界である地球環境との一般性レベルでの同一性を保っていかなければならないのである。 生命体は、代謝という運動形態を続けることによって存続してきたのであり、これを続けるためにこそ、単細胞から人間にまで進化してきたのである。



 代謝をさらに大きな観点から眺めると、生命体と地球環境との相互浸透の過程ととらえることができる。 生命体は、環境から必要なもの、すなわち酸素や水、さらには食物としての生命体そのものを取り入れることによって自らの生命現象を維持し発展させ、また、生命体が環境から物質を取り入れ、かつ環境へ排出することにより環境が大きく変化発展し、またその大きく変化発展した環境に適応するために、生命体もまた大きく変化発展してきたのである。



 35億年前、地球上にはじめて誕生した生命体である原始単細胞は、一つの細胞が生きることのすべての機能を持っていた。 つまり、周囲のエサを感じたらそれを取り入れ、それを自己化して排出することによって生きていたのである。 原始単細胞においては、運動は直接に代謝であり代謝は直接に運動であって、運動と代謝は未分化であった。
 やがて、この単細胞生命体は、変化する地球環境に適応して生きていくために、食物をとるための運動を担う部分と、とった食物を役立てるための代謝を担う部分とを分化させ多細胞生命体へと発展した。 単細胞生命体において「 運動 = 代謝 」 であったものが、「 運動と代謝 」 の二重構造に分化したのである。
 多細胞化した生命体は、地球環境との相互浸透によってそれぞれの役割をはたすために分化した細胞をさらに発達させていったが、魚類段階において、それぞれに専門的な《 器官 》を形成するに至った。 すなわち、複雑化した食物をとるための高度な運動を担う運動器官と、複雑化した食物を代謝するための代謝器官を形成したのである。 ここで重要なのは、各器官の独立分化にともなって、それらを全体として統括する器官が必要となったことである。 これが《 脳 》であり、脳と各器官を媒介するところの《 神経 》と《 ホルモン 》である。
 この統括器官は、外界に関わっても重要な機能を持っている。 つまり、外界のあり方を感覚器官をつうじて脳細胞に反映させ、これにもとづいて各器官を統括するのである。 脳細胞がこのような機能を持つようになったのは、動く食べ物をとるためには、外界のあり方を瞬時に反映し、それにあわせて運動する必要が生じてきたからであり、食べ物がとれる場所などの自分の生活圏を覚えることも必要となってきたからである。
 魚類から両棲類、哺乳類へと進化するにしたがって、感覚器官は発達し、また運動器官であるヒレは手足へと、代謝器官である内臓もより複雑な代謝を営む構造へと発展したのであるが、これは当然にそれらを統括する脳そのものの発展を伴うものであった。 生命体と地球環境の相互浸透が進み、両者の関わりが複雑になっていくにつれて、生命体が環境とうまく関わるためには、外界を反映させるという脳細胞の機能を発展させていかねばならなかったのである。 サルから人間への進化は、この機能の高度な発展がいわゆる精神の誕生という質的転化をもたらしたことによるのである。



 人間の脳の機能には大きく分けて二つある。 一つは頭脳活動と心理活動を併せ持つ《 認識 》としての機能であり、もう一つは全身の各器官を統括する神経系の中枢としての機能であるが、人間の脳の特殊性は、前者の機能にある。
 人間の認識はまず、対象の反映により脳細胞が描く像として誕生する。 しかし、これは単なる外界の反映ではない。 単なる外界の反映であれば、魚類からサルまでの動物においても見られるものである。 それでは人間の認識はサルまでの単なる反映とどこが違うのであろうか。
 サルまでの動物の場合は、外界の反映はあくまで本能に従ったものである。 例えば自らの食物が食物として反映し、自らの天敵が天敵として反映するのであり、その反映した像に基づいて、本能的に決まった行動をとるのである。 これに対して、人間の脳はその反映した像を外界そのままに受け入れるわけではない。 人間は今までの生活経験の中で創りあげられてきた対象に対する何らかの思いを伴った像をもとに、問いかけ的に対象を反映させるのである。 つまり、人間の認識は単なる反映ではなく《 問いかけ的反映 》なのである。 また、人間の脳は、外界に存在した対象とは相対的に独立した形でその像を発展させる実力、すなわち想像の実力をも持つ。 人間の脳は、外界を反映した像を合成しているうちに外界から相対的に独立した形で像の合成ができるようになっていくのであり、その想像した像をもって外界に問いかけ、その問いかけに応じて外界を反映させる実力を持つのである。 このために、前出の例でいえば、人間は自らの食物を食物として反映させるだけでなく、天敵をも食物として反映させていき、本来食物でないものを火などを用いることにより食物として創造していくということになるのである。



 人間は、脳の機能として外界を反映したうえで、さらに外界とは相対的に独立して発展する認識を持つことにより、それらの単独あるいは合成した目的的な像にもとづいて外界にはたらきかける存在、すなわち《 労働 》する存在となった。 「 生命の歴史」において、原始単細胞からサルまでは、生命体は生命体を産み出した地球環境によって生かされ、それに適応するように変化・発展させられてきたのであるが、人間に至っては、逆に環境に向かって目的意識的にはたらきかけ、環境を自らに適応するようにつくりかえることによって自らの発展をはかっているのである。 サルまでは受動的・受身的だったものが、人間においては能動的・積極的になったという重大な質的転化があるのである。
 人間から環境への意識的なはたらきかけは、決して個々バラバラに行われたのではなかった。 人間は、多数個人の協働によって環境に向かってはたらきかけることによって《 社会 》を形成したのであり、個人間の精神的交通をはかる必要から、認識の物質的表現としての《 言語 》を誕生させたのである。 このことはまた、言語を習得させ、社会に適応できる人間を育てるための《 教育 》を必要とした。 そもそも人間の認識は、出生の瞬間から外界と関わることによって脳の機能として形成されていくものであり、いかなる像を形成し、定着させていくかは本人と外界との関わりにおいて次第に決められていくものである。 つまり、人間は環境によってどのようにでも創られていく存在であるということであり、ここに《 個性 》誕生の必然性があると同時に、教育が必要とされる根拠があるのである。
 このように人間は、「 肉体的にも精神的にも相互につくりあう」( マルクス / エンゲルス『 ドイツ・イデオロギー 』 新日本出版社49ページ )存在であるが、こうした協働において結びついている人間の集団こそが社会に他ならない。 人間は、労働によって環境を意識的につくりかえるに至ったという点で生命体としての完成形態といえるのであり、「 生命の歴史 」 における人間の登場以降の変化・発展は、この人間社会のあり方の変化・発展に他ならないのである。