世の中には、他人に無理難題を押し付けたり、理不尽な要求を繰り返したり、自分が一番であると疑わないような振る舞いをする人がいる。 「自分大好き」 が高じて、他人を攻撃したり、陥れたりする例もあり注意が必要だ。 なぜ、行過ぎた自己愛は危険なのだろうか。
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その一因として、戦後の民主的な社会で浸透した 「平等」 という幻想の崩壊が挙げられます。 「みんな平等」 などと学校でも教えられ、それを信じていたのに、現実には 「勝ち組」 と 「負け組」 の格差が拡大していることもあって、そんな幻想を信じられなくなりつつあります。 教育による社会的地位の上昇というのも 「神話」 になりつつあります。 教育には多額の投資が必要であり、名門大学ほど裕福な家庭の子どもが多い ──。 そんな現実を突きつけられると、 「負け組」 はどうあがいても、 「勝ち組」 との格差を埋められないのではないかという気になります。 それでも、一度刷り込まれた平等幻想を捨て去ることなどできません。 最近では、ツイッターやインスタグラムなどSNSの普及で他人の生活を簡単にのぞき見ることができるようになったことも、羨望せんぼうをかき立てる一因になっているようです。 |
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羨望を 「他人の幸福が我慢できない怒り」 と定義したのは17世紀のフランスの名門貴族フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーですが、まさに言い得て妙です。 だって、そうでしょう。 SNSは、 「リア充」 ( リアル=現実の生活が充実している様子 )自慢や幸せアピールでいっぱいなのですから。 たとえSNSに投稿された画像がちょっと見栄みえを張った虚像であり、実像とはまったく違っていたとしても、見ている側は 「あの人は、あんなに充実した人生を送っていて幸せそう。 それにひきかえ自分は ……」 という気持ちになるものです。 だからこそ、 「他人の幸福が我慢できない怒り」 を抱くのですが、それでは自分があまりにも惨めです。 そこで、 「自分だってこんなにスゴイんだ」 と誇示したり、特別扱いを要求したりして、自分の価値を他人に認めさせようとするわけです。 こうした反応は、他人との比較によって自分自身の優位性が脅かされた際に表れやすいようです。 ときには過剰反応してしまい、傷ついた自己愛を補完しようとするあまり、暴走してモンスターになることもあります。 そうなると、傍迷惑はためいわくです。 第一、モンスター化した本人が自滅してしまうかもしれません。 それでは、 「自分大好き」 人間の5つのタイプを紹介して、その心理を分析してみたいと思います。 |
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自撮りしてSNSに投稿した写真を見た友人や知人から 「すごくきれいな部屋だね」 とほめられると、うれしくなるのですが、実際は部屋に誰も立ち入らせないということです。 このように常に注目され、称賛されていないと気が済まず、自己演出に余念のない人が増えています。 これは、自己愛に由来する自己顕示欲と承認欲求が強いせいです。 こういう欲望を満たすために、実像と虚像のギャップをウソで埋めようとする場合もあります。 その典型が、ツイッターでセレブライフを綴つづり、 “キラキラ女子” として崇あがめられていた 「ばびろんまつこ」 です。 無職なのに 「年収3000万円のハイパーエリートニート」 をかたっていましたが、結局、詐欺容疑で逮捕されました。 SNSではいくらでも虚構の世界を作り出せますから、自己演出に拍車がかかりやすく、場合によっては彼女のように現実と嘘の落差を埋めるために犯罪に走ってしまうこともあるのです。 過剰演出に陥ってしまうのは今や他人事ではなく、誰もが 「ばびろんまつこ」 になる危険性をはらんでいることを忘れてはなりません。 |
40代の契約社員の男性はSNSに繰り返し中傷を書き込んでおり、炎上にも加担しています。 有名人のスキャンダルが報じられたり、自分が正しいと信じている価値観と違う意見が発信されたりすると、ここぞとばかり、徹底的に叩くのです。 彼は常に 「正義」 を振りかざして攻撃します。 この 「正義」 の起源については、ドイツの哲学者ニーチェが 『道徳の系譜学』 の中で、 「ルサンチマンにある」 と言っています。 「ルサンチマン」 とは、 「恨み」 を意味するフランス語で、 「正義」 を振りかざす人の心の奥底にはうらみつらみが潜んでいると、ニーチェは指摘しているわけです。 これは的を射た指摘です。 というのも、この男性は、大学卒業時に就活に失敗したため非正規社員として職を転々としており、安定した生活を送っている正社員や富も名声も手にしている成功者に対して強い羨望と恨みを抱いているからです。 だからこそ、恨みを晴らしたいという願望が強く、ネット上であら探しをせずにはいられないのでしょうが、 「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」 ようにも見えます。 この手の 「裁判官を装った復讐の鬼」 はどこにでもいます。 しかも、自分は正しいと信じているので、本当にやっかいなのです。 |
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一事が万事、この調子。 病院を受診した際も、待合室で待たされたため、 「私だけ待たずに診察を受けられるようにしてほしい」 と要求。 主治医に 「だったら、特急券買ってきなさい」 とたしなめられたのだとか。 このときは主治医が院長だったので、 「上の先生を呼んで」 と叫ぶようなことはしなかったようです。 このマダムは、自分は特別な人間だから、特別扱いされて当然という特権意識が強いようです。 こうした特権意識は、それなりの根拠があることもあれば、客観的な根拠がない思い込みにすぎないこともあります。 この女性の場合は、若い頃はスタイル抜群の美人だったらしく、あまたの男性からちやほやされたという経験が特権意識の根拠になっているようです。 もっとも、現在の彼女を客観的に眺めると、特権意識の根拠になっているはずの顔やスタイルの良さが維持されているとは言いがたいように見受けられます。 自らの特権意識を支えていた若さと美しさが徐々に失われつつあることを自分でも薄々感じているからこそ、ことあるごとに特別扱いを要求し、それが受け入れられると 「まだ大丈夫」 と安心するのでしょう。 |
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このように 「過去の栄光」 を持ち出して自慢する人はどこにでもいます。 小学校の頃はクラスで一番だったとか、若い頃はきれいでちやほやされていたという話をして、ときには何十年も前の写真を持ってきて見せてまわる始末。 閉口します。 こういう人に共通するのは、現在はそれほど輝いているわけではないという点です。 高学歴の割に出世していなかったり、若い頃はそれなりにきれいだったのかもしれないけれど、今はすっかり “おばちゃん” になっていたりするわけです。 だからこそ、 「過去の栄光」 にすがるしかないのかもしれませんが、困ったことに、本人はそのへんの心理に気づいていないことがしばしばあります。 しかも、 「過去の栄光」 をよすがにして、現在の自分を過大評価していることも少なくありません。 そのため、目の前の現実をきちんと認識できず、現実否認に陥ることもあるのです。 そうなると一層、 「過去の栄光」 を持ち出さずにはいられず、悪循環に陥ってしまうのです。 |
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「お父さんが定年退職したら、その後はどうするの」 と母親から叱責されることもあり、うっぷんがたまっているようです。 親からもらった小遣いを持って外出するたびに、コンビニや飲食店で、バイト店員に 「接客態度がなってない」 などとクレームをつけて、謝罪を要求するのだとか。 この男性の場合、親から叱責されても言い返せず、そのとき感じた怒りや攻撃衝動を関係ないバイト店員に向け変えるという 「置き換え」 のメカニズムが認められます。 平たく言えば、ただの八つ当たりです。 接客業の店員や駅員、力関係がはっきりしている職場の部下など、言い返せないような立場の人はこの 「置き換え」 の対象になりやすいものです。 その結果、店員に土下座を強要したり、駅員に暴力を振るったりする事件が頻発しています。 いずれにせよ、他人をおとしめることで相手を無価値化すれば、自分の価値が相対的に上がると信じているがゆえの振る舞いですが、勘違いもはなはだしいですね。 |
このように、 「自分大好き」 人間は、自分自身の優位性を常に確認せずにはいられず、さまざまな振る舞いに出ます。 これは、ラ・ロシュフコーが言っているように 「自己愛は、あらゆるおべっか使いのうち、最もしたたか者」 だからでしょうが、そのせいで周囲の反感や敵意を買いやすいようです。 はた目にも “痛い” と映ることがしばしばあります。 ですから、 「おべっか使い」 である自己愛のせいで暴走していないか、わが身を振り返るまなざしを常に持っておきたいですね。 |