いや、今更ながらと思いつつ、いささか驚いた。  夕の通学時に、高校の教員たちがそれぞれ手分けをして、通学路線の電車に乗り込み、公共の場における高校生たちのマナー指導にあたっている、という映像がTVで報じられたのである。

 それは、とかくの話題にこと欠かない東京都心部の話ではない。 そこからは100キロ以上も離れた群馬県の、とある地域のトピックスである。 しかも、これはいわゆる話題作りの “ヤラセ” 番組ではない。 大真面目な 『 ニュース 』 として放映されたものだ。

 比較的純朴と思われるこの地域だが、高校生たちの公共マナーの悪さが目に余る、という苦情が絶えないため、教員たちが( 遂に、止むなく )立ち上がった、というのである。

 高校生といえば、日本では小・中学校での9年間の義務教育で、一応の基礎的、基本的な知識と一般社会に適応できるだけの素養をすでに身につけて、世に送り出されてきているはずである。 その後、さらに高度の知識と教養を重ねるために進学するのが高校である。

 だから、高校の教員たちは、それぞれの専門分野を担当し、より高度の学問的知識を与えるために生徒たちを指導するのが第一義的な仕事となっている。 その高校生たちに対して、知識は二の次にして、小学生を指導するように、まず最初に公共のマナーについて、基本から教え込まなければならない、というのはどうしたことだろうか。

 東京や大阪などの大都市を中心に、こうした社会適応に未完成な若者たちを多く見かけるが、日本全体にこうした風潮が蔓延しているのはどうやら事実のようだ。 これらの背景には、日本の教育制度や家庭環境、社会環境などいくつかの問題が潜んでいると思われる。

 さきに東京都では、 『 公共の場で多くの人々が 「 迷惑 」 や 「 不快 」 と感じる行為を防ぐための検討会 』 を設置して実体の把握と対策に取り組んでいる。

 こうした会合などで提起されるマナー違反、つまり 「 反社会的行為 」 には、高校生だけでなく、一般の社会人を含めて次のようなことが常に挙げられる。
 ─ 未成年者の喫煙、人混みの中での歩行喫煙と吸殻のポイ捨て
 ─ 電車やバスの中での携帯電話の会話
 ─ 電車の中での化粧
 ─ 近距離電車 (ベンチシート) の中での飲食
 ─ 弱者優先席を守らない
 ─ 電車の入り口などドア付近にしゃがみ込む
 ─ 吊り革を 「吊り輪」 代わりにしてぶら下がる
 ─ 股を大きく開いて座席を必要以上に占有する
 ─ 電車内の網棚によじのばる
 ─ 電車の車両間の連絡通路を通ってもドアを閉めない
 ─ 空きビン、空きカン、ペットボトルを車内にポイ捨て
 ─ 電車の中で子供がはしゃぎ回るのを親が注意しない
 ─ 混んだ車内で新聞を大きく広げる
 ─ 車内でわいせつな写真や絵の雑誌を広げる
 ─ 乗り降りの際 「失礼」 という声もかけずに、他人を突き飛ばす
 ─ 他人の足を踏んだり、ぶつかっても謝らない
 ─ 車内で濡れた傘を振り回す
 ─ フォームなど人混みで傘をゴルフのクラブ代わりに振り回す
 ─ 混んだ車内ヘベビーカーを折り畳まずに押し込む
 ─ 靴をはかせたまま子供を座席に立たせる
 ─ 公共の場に備え付けのゴミ箱へ家庭ゴミを投棄する
 ─ いたるところに落書きをする
 ─ 周りを気にせず、仲間同士で大声でしゃべる
 などだが、さらに 「 迷惑 」 やマナー違反というより、不快感を覚えるものには次のようなことが挙げられている。
 ─ 人目もはばからず、公共の場所で男女が抱擁する
 ─ 女子高生の異常で無個性な厚化粧とピアスなど過剰な装飾
 ─ 男子高校生のずり落ちパンツなど奇怪な服装
 ─ 靴の踵を踏み潰して引き摺るって歩く
 また、こうした行為に起因して、やがて
 ─ 万引き (窃盗) や恐喝、暴行、傷害、殺人
 ─ 痴漢行為や売春・買春及びその類似行為
 ─ 非合法ドラッグや麻薬類の売買・使用
 ─ 集団による暴走行為や示威行為
 などの刑法犯に直接結びつく例も少なくないのだ。

 中部ヨーロッパ系のR記者は言う
「 日本人は比校的礼儀の正しい民族とされてきました。 これは歴史的に同一民族社会から成り立つもので、助け合いや譲り合い、思いやりなど相互に諍いを避けながらうまくやっていこうという社会生活の知恵なのだと私は考えています。

 それが、いつからこのような自己中心的なビヘイビア ( 言動 ) に移行してきたのでしょうか。 私の日本人の友人の多くは50代以上ですが、彼らはこうしたマナー違反の言動については、等しくにがにがしく思っているようです。

 それらを、単に世代間の価値観の相違だ、と決めつけるだけでは、問題の解決にはなりません。 人間社会の最低線のルールを定めているのが法律です。 その法律以前に、それぞれの国や地域では日常生活に密着した行儀作法として、規定や規則、規律や基準・標準といった一定の “ものさし” があります。

 また、慣例や風習などを含めて礼儀、習慣、態度、様式、などもあります。 これらはいずれもが共通の同意と合意によって醸成されてきた “文化” です。 その “文化” で支えられている社会は個人の集団です。

 ですから、個人はそうした社会を構成する一員なのです。 その社会で、一定の公共の空間をお互いに共有し合う中では、共通の認識をもって、相手に迷惑や嫌悪感を与えない、少なくとも相互に許し合える “文化” を守っていこうというのが、公共のマナーだと思います。

 社会のもっとも小さな単位は家庭から始まるわけですが、幼い時からの、その家庭内でのディシプリン ( しつけ ) が大切な基礎になる、と考えられています。

 個人と社会との関係は、家庭、職場や学校、地域社会、郡、国家さらにEU ( 欧州連合 ) を通して国際社会へと繋がっているのです。 しかし、日本ではそれらのトレーニングが十分ではないように思います。

 ましてや、身近な公共のマナーに反する他人の子供を叱ったり、たしなめるのを私は聞いたことも見たこともありません。 学校でも、どういうわけか厳しく叱責することはないと聞いています。

 徹底的に理非善悪を教え込まないのかもしれません。 その結果、子供は 『 たいしたことはない、これでいいのだ 』 程度の理解で終わってしまうのです。

 また、叱られた子供の親がうるさく教員を問い詰めたりする例もあるそうです。 学校教育か、それとも親の教育か、教員も社会も戸惑うことでしょう。 若い世代の人たちが新しい建設的な社会を築いていくことには大いに賛成です。 しかし、自分勝手、自己中心の文化では集団社会や国家は成り立ちません。

 若者たちの言い分は、 『 自分がそうしたいからする、自分以外の人からとやかく言われたくない。 自分さえ良ければそれで良い、他人の迷惑など考えたこともないし、考えたくもない 』 という者が多いようです。

 こうした若者が日本中に蔓延しているように思えてなりません。 そこには理性や抑制力というものが働かないで、ただ感情の赴くまま突っ走るから、 『 すぐカッとなる 』 社会不適応症人間が生まれてくるのです。

 日本国が戦争をしないと決めてからすでに60年を経過しました。 そして経済的には世界有数の大国として認められています。 しかし、人口は減少の一途を辿っている、と統計が示しています。 日本の若者たちの将来にかけられている責任は大きいものがあると思います。

 そうした若者たちに自覚を促すためにはどうすれば良いのでしょう。 外国人が干渉するな、と言われるかも分かりませんが、高校を終わった後、男女を問わず、一年程度の集団生活を全員に義務付け、そこで個人と社会、集団との関係を、体験を通じて十分に理解させるプログラム ( 制度 ) の実施も一つのアイデアだと思うのですが。

 と、言えば忽ち軍国主義復活だ、と早とちりする向きもあるでしょうが、必ずしも自衛隊でなくとも良いのです。 高齢者社会を迎えて老齢者介護組織に奉仕するのもいいでしょう。 国土の約80%の山林を護る林野整備組織も必要です。

 また、地方過疎地域の再開発組織、それに資源のリサイクル活動組織など、いくつもの国家プロジェクトに取り組むことが考えられます 」