今年も 「 成人の日 」 には満二十歳になった人たちを対象に、 『 大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます 』 ために、各地で様々な催しが行なわれた。

 会場のディズニーランドで、ミッキーマウスのショウに歓声を上げる 「 成人たち 」 がテレビに紹介されていた。 また、その他の会場では、設置された無料のプリクラに奇声を上げて群がり、海洋公園や遊園地などのテーマパークでも振袖姿で絶叫マシンに打ち興じる 「 成人 」 たちが紹介されていた。

 また、その一方では、酒を飲んで騒ぎ、怪我人を運ぼうとした救急隊員に暴力を振るって逮捕される 「 成人 」 も現れた。 と思えば、式典の会場で市長の祝辞や激励の挨拶にも罵声を飛ばし、クラッカーを鳴らし続けて暴れ回り、壇上の市民憲章の垂れ幕を引き剥がすなど、無法地帯と化した成人会場もあった。

 この 「 成人の日 」 は1948年に 『 国民の祝日に関する法律 』 によって制定された日本独特の祝日である。 各自治体が主催して 「 成人式 」 を催すようになったのは、それから数年たってからである。

 満二十歳になった人たちを祝い、励ますための講演会や式典を、と考えて各自治体は様々な催しに公金を拠出してきている。 しかし、成人式の実態は年を追って様変わりをしてきている。 3年前には、騒いだ 「 成人 」 を一喝した知事がいたが、毎年こうした騒ぎが繰り返されている。

 ヨーロッパ系のE記者はいう
「 満二十歳になっても、自立どころか、幼稚さの抜け切れていない 『 成人 』 が日本には多いと感じるのは、私だけでしょうか。 遊園地に招待する方も 『 堅苦しい講演会で騒がれるよりも、遊ばせておいた方が無難か 』 と考えたのかどうかわかりませんが、余り知恵を絞った結果とも思えません。

 そして招待される方も素直に、ただ無邪気にはしゃいで喜んでいるだけです。 これではどこに 『 成人の日 』 の意味と自覚があるのでしょう。 暴れる若者たちを見ていますと、他国のことながら少し残念です。 いくら価値観が変わったといっても、思慮分別を整え、是非善悪を正しく理解し、出来なければそれをさせることが 『 成人 』 の証しだと思うのですが。

 それを諭し、教えるのが社会へのパスポートであり、先輩の責任だと思います。 親も、学校の教員も、誰もなにも言わない、忠告しないから、彼らは何をやってもいいのだと考えているのではないでしょうか。 何か言われるとすぐに 『 むかつく 』 『 おまえになんか言われたくない 』 という反応が返ってくるのも、その証拠でしょう。

 私は、たまたま昨日現実にその典型を見ました。 ある私鉄で、2、3歳位の幼児をベビーカーに乗せた二十代前半の母親が電車に乗ってきました。 母親が座ったシートの前にベビーカーが置かれ、こどもはベビーカーから出されて座席に移されました。 若い母親はケータイを取り出してメールに夢中です。

 その隣で子供は靴を履いたまま寝転んだり、シートの上にそのまま立ち上がって窓の方に向き直って外の景色を眺めていました。 少し車内が混み始めたとき、その前に立った初老の婦人がその女性にこどもの靴を脱がすように注意をしました。 そしてさらに子供が占拠しているスペースを、大人が座れるようにもっと空けてはどうか、と提案したのです。

 その若い女性の返事は、私の理解ではこうでした。 『 見ず知らずの、関係のない人から、いちいちうるさく指図をされる必要はない。 たかが、こどものことじゃないか。 ほっといてほしい。 そんなに座りたいのなら、あなたがさっさともっと空いている車両へ移ればいいじゃないか。 』 回りの人たちは、その成りゆきを黙って注目しているだけでした。

 見兼ねた私はその初老の女性をサポートして同じ注意をしました。 “ガイジンまで一緒になって ……” とつぶやくのが聞こえました。 そして子供を無理矢理引き摺るようにして、彼女は次の駅で降りてしまいました。 本当に反省したかどうかは解かりません。

 英語では 『 成人式 』 を The Coming of age の Ceremony と表現しますが、折角こうした節目の記念日を設けているのですから、もう少し有意義なプログラムが考えられないものでしょうか。 例えば、満20歳になれば半年か1年間の 『 社会サービス 』 を義務付けて、学生の単位取得の一部とするなども考えられるでしょう。

 もっと人と人との触れ合いの機会を増やすためにも、老人介護を始め、各種の福祉施設、もしくは過疎化の一途を辿っている地方の農漁村への 『 ワーキング・サービス 』 などは、世代間の価値観のギャップをお互いに理解し合える絶好の機会になるかも知れません。

 幾つかの問題を同時に解消するきっかけにもなるでしょう。 例え一日でもいいですから、この日は成人になった人たちの 『 ソシアル・サービス 』 ( 社会奉仕 )の日だとすれば、彼らの自覚も変わってくるでしょう 」