国歌
   



 アメリカ・サンデイエゴで行なわれたWBC( ワールド・ベースボール・クラシック )の決勝戦で、日本がキューバを10-6で破り 「 初代世界一 」 の栄誉に輝いた。

 野球王国のアメリカを始め、世界から16の国と地域が参加した。 試合の途中経過では紆余曲折あったが、日本チームは辛うじて生き残り、準決勝で韓国に6-0で快勝、決勝戦に臨んだだけに、選手たちの意気込みも、応援する人たちの興奮振りも最高潮だった。

 日本が優勝した途端、グラウンド内に巨大な “日の丸” が担ぎ出された。 ピッチャーマウンドにも日の丸が敷かれ、それをTVカメラがアップで撮影していた。 日本国民が均しく感動した情景であった。

 さきにイタリアのトリノで開かれた冬期オリンピックでは、女子フィギュアの荒川静香選手が日本で唯一の金メダルを獲得した。 彼女は日の丸を体に纏ってリンクを一周、優勝の喜びを誇示した。

 総勢112人もの選手( と、それを上回る付き添え人たち )を送り込みながら、日本勢は各競技でメダルに届かず、惨敗を重ねた。 最後にやっと手に入れた金メダルだった。 荒川選手は表彰台で、国歌の演奏に合わせて “君が代” を口ずさんでいた。

 日本では多くの学校で3月は卒業式、4月には入学式が行なわれる。 この時期には学校の他、公的機関などでもさまざまなセレモニー( 儀式 )が行なわれる。 その際、殆どの式場には国旗が掲げられ、全員で国歌を斉唱する。

 全員が起立して、敬虔な気持ちで国旗と国歌に敬意を払う。 日本の国民としての誇りと栄誉を自覚する 『 文化的行事 』 の一環でもある。 こうしたことはどこの国でも極めて自然な行為として受け止められている。

 また、オリンピック・ゲームだけでなく、各種の国際的な催しなどでも、関係する国の国旗や国歌に対して、自国のそれと同様に常に節度をもって敬意を払うことが求められる。 それが国際間の礼儀であり、ルールでもある。

 ところが、このほど東京都の教育委員会が都立の各高校長宛に、ある 『 通達 』 を行なった、という。 それは、学校行事等のセレモニー( 儀式 )で、国歌斉唱時には、 「 必ず起立をするよう生徒への指導を徹底することを命じる 」 という内容であった。

 これは去る3月上旬に行なわれた、ある都立高校の卒業式で、生徒の大半が起立しなかった実例があったことを受けたものである。 これだけで驚いてはいけない。 都の教育委員会は、去る03年の10月にも 「 国歌斉唱時には教職員自身の起立を義務付ける 」 通達を出していたのだ。

 それは、現実にそういう教職員がいることを裏付けている。 教職員自身が、国家斉唱時に起立しなければ、生徒たちが起立する筈がない。 日本の将来を担う青少年を指導する立場の教職員が、極く一部であれ、このような “指導” をしている事実があるから、今回の様な通達が再度発令される事になる。

 国家斉唱時に起立しなかった等の理由で懲戒処分された教職員は、先の通達後もあとを絶たず、その中には今年の1月、学校の創立30周年記念式典で、意図的に起立しなかった女性教員( 停職1ヵ月の処分を受けている )を含めて、東京都だけで昨年度には約50人もいた、という。

 今回の通達によって、教職員自身の起立はいうまでもなく、生徒の不起立に対しても教職員の指導が不適切と考えられる場合には、その教職員が懲戒処分されることを示唆している。

 いっぽう、日本政府は今国会で教育基本法の改正案を提出しようとしているが、その中で 「 愛国心 」 をめぐって、与党内でも意見が分かれているようだ。 合意の取り付けに向けてなおハードルが高い、と伝えられている。

 それにしても、自国の国民を育成する立場の教職者に対して、ことさらに 『 職務命令 』 を出してまで、国歌や国旗の扱い方まで指導の徹底を計らなければならないというのは、奇異に感じ、他事ながら残念に思う。

 これまで日本の学校や家庭では 『 国と国民・個人 』 にかかわる概念について、何を、どれだけ、どのようにして刷り込まれ( 教え込まれ )そして理解されてきているのだろうか。 個人そして最少の集団単位である家族、個人が係わる集団・組織、地域社会、自治体、国家、国際社会との関係など、明確に理解している人はどれだけいるのだろうか。

 国家斉唱時には起立を促す、ということは、単に立ち上がれば良いということではなく、基本的な 『 しつけ 』 や 『 一般社会的教養 』 の涵養、そして 『 民族の文化と誇り 』 とも連繋して考えられる事である。

 一部であれ、自分の帰属する国家に対する愛着の念を否定するような行動をとる教職員たちは、彼ら自身の信念に基ずいて行動しているのだろうが、彼らは国の将来を担う多数の生徒に直接影響を与える立場にある、ということを忘れてはならない。
「自分のやりたいことは、何時でも、どこででも自由にやる」 「自分の気に入らないことは、全否定する」 「権利は主張する。 が、義務は果たしたくない」 「既存の価値観に縛られず、自分の価値観で判断して何が悪いのか」
 などという自己中心的な風潮が広まってきている要因とも、どこかで繋がるような気がするのは私だけだろうか。 もっとも、これらの根底には、学校教育だけでなく、日本社会全体が辿ってきた、幾つかの副次的な要素があるのも事実だが、ある日本の友人はこう言う。
「 でも、悲観することはないよ。 わざわざ国歌演奏時には起立せよ、とか “愛国心” の涵養などと殊更に言わなくても ……。 国際的な競技を見給え。 ごく自然な形で、多くの日本人は国家を背負って情緒的に喜怒哀楽を示しているのだから。 日本人は日本人としての誇りに満ちた愛国心と自信を立派に持っていると思うよ 」






    


 ヨーロッパ系の N 記者が、 「 どうにもよく解らない、君はどう思うか 」 という面持ちで話かけてきた。

 「 公立学校の教職員たちは、国家の教育方針に従って将来を担う青少年たちを指導すべき筈だが、東京都の場合、 “おれの、私の思想・信条に合わない” と考える者は、自国である日本の国旗が掲揚されても、それに敬意を払って起立する必要も無く、国歌の斉唱もしなくて良い、ということになったらしい。 裁判所が、そういう判決を下したんだそうだ。

 大体、そういうことを裁判所に訴えて決めてもらわなければならないということ自体、 “国家概念” に国民の共通の理解が未だ定着していないのではないか、と思うんだ。

 どうやら、日本の国旗や国歌はかつての軍国主義の精神的支柱だったのだから、これに反対する権利と自由はあり、東京都の教育委員会 が出した通達( 2003年10月に学校の式典での国旗掲揚や国歌斉唱時の起立などを求めた )に従う義務はない、ということらしい。

 当然、東京都は控訴するようだが、われわれの一般常識では、どこの国であれ、国歌が演奏されたり、国旗が掲揚されれば起立して敬意を払うのが当然のマナー( 礼儀作法 )だと考えるのだが …… 」

 これに対して、日本語が解かるアジア系の D 記者が日本の各紙の論調を解説してくれた。
「 今回の東京地方裁判所の判決に関して、この日の読売新聞と朝日新聞が全く異なった意見を社説で述べているのが面白かった。

 まず、読売が 『 認識も論理もおかしな地裁判決 』 と題して、N 記者の言う通り、セレモニー( 祭典や儀式など )では、自国・他国を問わず、国旗や国歌に対して敬意を払うのが当然の国際的マナーであり、今回の判決は、 『 少数者の思想・良心の 自由 』 を過大に評価したせいで、今後の学校運営に影響の出かねない、おかしな判決だ、と批判しているんだ。

 これに対して、朝日は待ってましたとばかり、( 国旗や国歌の ) 『 強制は違憲の重み 』 と憲法レベルまで引き上げて、教育の 『 不当な支配で違法だ 』 という今回の判決を高く評価して、こうした司法判断の流れを支持する、と双手を挙げて賛同、共鳴しています。

 いっぽう、産経新聞の社説に代わる “主張” は、これでは 『 公教育が成り立たぬ判決 』 と、最も手厳しく批判しているのが目立ちます。 教育現場では、教師は指導要領などに定められたルールを守らなければならず、その行動は一定の制約を受ける、としています。

 そして、判決の主旨は、 『 一部の過激な教師集団がこれまで国旗や国歌に反対してきた理由と殆ど同じ 』 だとして、 『 裁判所がここまで国旗や国歌を冒涜していいのか、極めて疑問だ 』 とまで、強く論評しています。 さらに、各学校はこの判決に惑わされず、毅然とした指導を続けてほしい、とまで言い切っているのが特徴でした。

 さらに、毎日新聞は、社説ではこの件には触れず、 『 ニュースの焦点 』 で特集し、その中で 『 判決では決して日の丸や君が代を軽視していない 』 として 『 国を愛する心を育てるとともに、国際社会で尊敬、信頼される日本人として成長させるため、国旗・国歌を尊重する態度を育てることは重要 』だとする判決文の一部を紹介し、この判決は 『 強制を排除して、多様な価値観を認め合うことこそ、最も重要だ 』 との姿勢を貫いたものである、と解説するに留めています 」
 「 それにしても 」 と冒頭の N 記者は、
「 公立学校の教職員は、行政・司法・立法などの公共機関で国民の奉仕に携わる 『 公務員 』 の一員である筈です。 当然、警察官や軍人( 日本の場合は自衛官 )もそれらの中に含まれます。

 自由主義社会では、個人の思想・信条の自由は保障されますが、そうした公務に属した場合には、それぞれの組織には一定の制約なりルールがあり、それらの一部が制約されることがあるのも事実ですが、それは止むを得ないことだと考えます。 彼らはそれらに従う義務があると思います。 それらの制約やルールも、独裁政治でない限り一方的に恣意に決められたものではないはずです。 もし、それらの制約条件に不満があるのなら、民主的な方法で改善策を模索するか、そうした束縛やルールを避けて自己主張の場を求めるべきでしょう。

 何をしても全てに自由が保障され、その上、自分の思想・信条に合わないものは全て拒否、というのでは話にならない。 現代の社会や組織の秩序、それに集団社会は成り立たないよ 」
 D 記者はこう言った。
「 行政の長である小泉首相は 『 人間として、国旗・国歌に敬意を払うのは法律以前の問題だ。 社会人になっても国歌も歌えない、国旗にも敬意を表さないようでは国際的にも通用しない。 個人の主張も大事だが、社会性、協調性を重視して、どういうことに敬意を払って接するか、という教育が求められる 』 とコメントしたらしいが、私も全くその通りだと思う。

 思慮分別をわきまえるように国民を育てる教育機関で、その指導者が自分自身の考えを貫くために、国旗や国歌に対して敬意を払わない言動・振舞を見せ付けておいて、どうして国を愛する心を適正に児童・生徒から導き出せるのか、と聞きたいね。

 国際的にも先進国の一員とされている日本だが、これが単なる国内だけの教育問題だと捉えていると、将来に大きな禍根を残すことは間違いない、と余所事ながら気にかかるよ 」