「被害者ならば何をしても許される」 ── そう思い込んで被害者のふりをする人が、いま社会に蔓延している。 必ずしも自分が実際に被害を受けたわけではないのに、あたかも被害者であるかのように装い、まわりの人々を味方につけて誰かを攻撃する人たち。 この人たちは、本来救済されなければならない「リアル被害者」とはまったく異なる人たちだ。 被害者ぶる人たちは、なぜ自分が被害者であるかのように装うのか?
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逆説的な表現だが、それは 「被害者」 である。 「加害者」 と 「被害者」 を比べると、本来は、加害者のほうが力( 物理的な力や社会的立場 )は強い。 だからこそ、被害を与えることができたはずだ。 しかし、被害が白日の下にさらされると、力関係は逆転する。 現代社会は、ルールのない弱肉強食の世界ではない。 誰かが誰かに被害を与えたら、社会全体で被害者を救済して、加害者に罰や教育を与える、という建前になっている( 現実に追いついていないところがあるにしても )。 被害者が被害を受けたことを訴えれば、社会が被害者を支援し、加害者を糾弾して、ときには罰を与えることもある。 かつてのように、被害者が泣き寝入りする必要はない。 立場が弱くて被害を受けやすかった人にとって、現代はとても暮らしやすい時代といえるだろう。 |
ところが、 「被害者の強さ」 を悪用する人たちもいる。 必ずしも被害者ではないのに、被害を受けたとウソをつき、まわりの人々を味方につけて誰かを攻撃するのだ。 たとえばみなさんのまわりで、次のような話を聞いたことはないだろうか。
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これらのケースに共通しているのは、加害者がみな 「被害者ぶっている」 という点である。 本人は本人なりに何かつらい思いを抱えているのかもしれない。 しかし、それは自業自得であり、誰かに陥れられたわけではない。 それにもかかわらず、 「自分は被害者だ」 とアピールすることによって逆に誰かを攻撃する。 こうした “被害者ぶる人” に心当たりのある人は多いはずだ。 “被害者ぶる人” は、必ずしも特別な存在ではない。 職場や学校、友達関係や家庭内など、ごく身近なところにごく普通に存在している。 そして、彼ら彼女らによって加害者に仕立てあげられて、肩身の狭い思いをしている人もまた数多くいるのである。 「幸運なことに、自分のまわりにそんな厄介な人はいない」 と感じている人もいるだろう。 “被害者ぶる人” は、加害者に仕立てあげても反撃をくらわないような相手を選んでターゲットにする。 また、まわりに 「自分がどれだけ被害を受けたか」 をアピールすることにも長けている。 そのため自分が直接被害に遭わなければ、 “被害者ぶる人” たちがいることに気づかないのも無理はない。 |
では、身近な人間関係の外( たとえば新聞の三面記事 )に目を向けてみたらどうだろうか。駅員への暴行は、完全に逆ギレである。 お酒を飲んで寝過ごしたのは、どう考えても容疑者自身に非がある。 とはいえ、自業自得ゆえに怒りをどこにもぶつけることができない。 そこで 「起こされた自分は被害者だ」 という立ち位置をつくり、弱い立場に置かれている駅員に怒りをぶつけるわけだ。 標的になるのは駅員だけではない。 “被害者ぶる人” にとって店員も格好のターゲットになりうる。 コーヒーをこぼしたのは本人なのだから、代金が返金されないのはあたりまえだ。 しかし、この容疑者は被害を受けたのは自分だと考えて、店員への暴行を正当化しようとした。 言語道断である。 キリがないのでまずこの2例にとどめるが、自分は被害者だと主張してサービス業の従業員に詰め寄るクレーマーの例は、ネットを検索するといくらでも出てくる。 広い意味では、子どものことで学校に怒鳴り込む “モンスターペアレント” や、私たちに理不尽な要求をする “モンスターペイシェント” も、クレーマーの一種だろう。 事件化されていないだけで、あたかも自分が被害者であるかのように装う保護者や患者のせいで困った経験のある教師や医師は多い。 このように “被害者ぶる人” たちは社会のあちこちに存在している。 もし自分の身近なところに “被害者ぶる人” がいなかったとしても、それはたまたま運がよかったからに過ぎない。 彼らに目をつけられて、次に本当の被害を被るのは、あなたかもしれない。 |