![]() 鎌倉市当局は中世の都市としての 「物的証拠が不十分」 と指摘されたことを認め、こう説明した。 人類の遺産として保護する価値があると世界に認めてはしいのは、鎌倉を取り囲む山々とその麓に点在する寺院や遺跡だ。 そこに日本独自のサムライ文化があると自分たちは考えているが、イコモスにはその意図が十分伝わらず、 「武家の古都」 とする根拠が不十分だと判断された、と。 黒岩知事は今回の勧告に 「目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた」 と語った。 こんな妥当な判断に衝撃を受けているようでは、知事の体が心配になる。 そもそも県の誇る珠玉・鎌倉がじわじわ破壊されていることに気付かなかったとしたら、あまりに無自覚だ。 シャネル日本法人の社長で作家でもあるリシャールーコラスは長年鎌倉で暮らし、この古都をこよなく愛しているが、あえてこう苦言を呈する。 「鎌倉の素晴らしい日本家屋の多くがこの10年ほどで姿を消した。 良くてもあと30年で完全に失われるだろう。 醜悪な近代的建築物の中に埋もれる大仏とわずかの寺社以外には、日本の古都の面影は消し去られ、鎌倉はディズニーランドのような作り物の観光地になる。 だから、ユネスコは鎌倉の世界文化遺産登録にノーを突き付けたのだ」 |
コラスは鎌倉で、地元の名匠たちの手になる伝統的な日本家屋を建てた。 本来ならこれは日本人がやるべきことだ。 鎌倉市当局は文化遺産を守るために最大限努力をしてきたと言う。 都市計画や景観保全の条例を導入し、建物の高さや屋上の看板、外壁の色を規制するなど法的措置を講じてきた、と。 だが、実態はどうか。 実例を挙げよう。 鎌倉市は地元住民の強い反対にもかかわらず、観先客が集まり、商店が軒を並べる由比が浜通りに葬儀場を建てることを許可してしまっている。 美しい日本の街並みが急速に失われっつあるのは鎌倉だけではない。 京都ではこの30年ほど、 「建築のジェノサイド」 ともいうべき暴挙が行われてきた。 取り壊された町屋はざっと10万軒に上る。 おまけに昨年には、憩いの場である梅小路公園の真ん中に巨大な水族館が建てられた。 サンディエゴにあってもマルセーユにあってもおかしくないような水族館を、よりによってなぜ京都に建てたのか。 東京はもはや暮らしやすい都市ではなく、 「洗練された平壌」 を目指しているようだ。 まるで行進する軍隊のように超高層ビルが整然と立ち並ぶ都市である。 私か住む新宿区富久町はかつては2階建ての家々が並び、木立が目をなごませる住宅地だったが、今では55階建ての超高層マンションが完成しようとしている。 こういう建物を建てる会社の経営陣は、高層建築が規制されている田園調布のような高級住宅地に住んでいる。 よその地域の暮らしや文化を破壊して、自分たちは優雅に暮らすというわけだ。 日本は 「クールジャパン」 と称して、独自の文化を盛んに世界に売り込んでいるが、独自の文化を本気で守る気はなさそうだ。 今の政府は自国の伝統に誇りを持つことを旗印に掲げている。 安倍晋三首相は 「美しい国、日本」 をつくると誓った。 ならば、歴史的・文化的に価値ある地域を不動産開発から守るべきだが、政府はそうした努力を怠っている。 このままでは美しい日本は跡形もなく消え去り、日本を訪れる外国人旅行者はがっかりするだろう。 悲劇としか言いようがない状況だが、日本の政治家はその重大さに気付いていないようだ。 |
京都人は観光公害を我慢するしかないのか。 京都の 「町」 が、外国資本の買い占めにあっている。 中国の投資会社は町家が並ぶ一角を買い取り、そこを中国風の名前で再開発する計画を発表した。 「このままでは京都の最大の資産である 『人々が暮らしをする町並み』 が消えてしまう」 と警鐘を鳴らす ――。
外国人観光客は 「効率のよい」 お客さん |
京都市産業観光局が2017年に調査した結果をまとめた 「京都観光総合調査」 によると、京都には、外国人、日本人を合わせて、年間5000万人以上の観光客が訪れています。 そのうち外国人宿泊客数は353万人で、宿泊日数をかけた延べ人数は721万人となっています。 ただし、これは無許可の民泊施設への宿泊客は含みません。 同調査では、無許可民泊施設での宿泊客数を、約110万人と推計しています。 観光客数に占めるインバウンドの割合は13.9%と、数では国内客に及びません。 しかし、観光消費額に占める外国人消費額2632億円は全体の23.4%となっており、外国人観光客が 「効率のよい」 お客さんであることを示しています。 2015年に発表された 『京都市宿泊施設拡充・誘致方針(仮称)』 によると観光客、特に消費額が大きいインバウンド客をあてこんで、京都市は 「2020年までに1万室の増加」 を観光政策に掲げています。 『京都新聞』 の調査では、 「京都市内の宿泊施設の客室数が、15年度末からの5年間ですくなくとも4割増の約1万2000室に増える見込み」 となっています(2017年12月5日)。 |
「簡易宿所」 が3倍以上に増えた2015年 |
市の政策をはるかに上回るペースで客室数が増えているのは、インバウンドをあてこんだホテルや簡易宿所の開業が、予想を超えたスピードで増えているからです。 ちなみに簡易宿所とは、宿泊する場所や設備を複数の人が共同で使用する有料の宿泊施設のことで、民宿、ペンション、カプセルホテル、山小屋、ユースホステルなどが該当します。 京都市が発表した 「許可施設数の推移」 によれば、18年4月現在の京都市内の宿泊施設はホテルが218軒、旅館が363軒に対して、簡易宿所が2366軒と、際立って多い数となっています。 京都市における簡易宿所の新規営業数が、飛躍的に跳ね上がったのは15年で、前年の79軒から、一気に3倍以上の246軒に増えました。 これは住民が普通に暮らしていた町家を、宿泊施設に転換する動きとも連動しています。 宿泊施設として新規許可を得た京町家は、14年には25軒でしたが、15年には106軒と4倍以上になりました。 なお15年は日本政府が中国に対してビザ発給条件の緩和を行った年です。 その前から円安が始まり、日本に来る外国人観光客、特に中国人をはじめとするアジアからの観光客の数が爆発的に増えました。 「爆買い」 が流行語大賞に選ばれたのも、同じく15年です。 |
町家が並ぶ一角を買収し 「中国風の名前」 で再開発 |
その後、京都ではインバウンド消費への期待がますます高まりました。 不動産のデータベースを取り扱うCBREの調査によれば、京都で17年から20年までの間に新しく供給されるホテルの客室数は、16年末の既存ストックの57%に相当するとされています。 これはつまり、16年に比べて1.5倍以上の客室数がこの数年で必要とされるようになった、ということです。 そのような背景の中で、京都の町中では今、驚くべき事態が進んでいます。 筆頭が、外国資本による 「町」 の買い占めです。 NHKによれば、中国の投資会社 「蛮子投資集団」 は18年に半年の期間で120軒もの不動産を買収したそうです。 中には町家が路地に並ぶ一画を丸ごと買って、そこを 「蛮子花間小路」 という中国風の名前で再開発するという計画まで発表されています( 『かんさい熱視線』、18年6月29日)。 外国人が京都を買い求めているのはなぜでしょうか。 大前提として、続く観光ラッシュと、2020年東京オリンピック・パラリンピックを前に、観光地の土地の需要と価値が高まっているということがあります。 その一方で、円安の状況が続いているため、外国人から見れば割安感がある、ということも考えられます。 また日本はローンの金利も低く、不動産は定期借地ではなく私有が基本なので、一度買ったら永久に所有できるのも大きいでしょう。 |
日本は 「安くてお得な」 不動産投資先になっている |
それらの要素は、地理的な距離が近い場所にいる中国人にとっては、とりわけ有利に働きます。 経済発展とともに上海や北京など大都市では不動産の値上がりが激しく、もはやその価格は東京を凌ぐようになりました。 要するに、日本は外国人にとって、 「安くてお得な」 不動産投資ができる場所になっているのです。 国土交通省が発表した18年の基準地価では、商業地の地価上昇率トップが、北海道の倶知安町でした。 町名だけでは、なぜ倶知安が1位なのか、にわかに分かりませんが、ここはニセコのスキーリゾート地として、外国人観光客に大人気の土地です。 同調査では、トップ5の2位から4位までは、京都市東山区と下京区が占めました。 前年に比べた変動率、つまり上昇率は倶知安で45%以上、京都ではいずれも25%を上回っています。 京都の不動産を狙うのは、もちろん外国資本だけではありません。 京都の市街地では、風情ある町並みの中に、安手のホテルを建設するパターンも増加しています。 これまで、空き家になった町家跡にコインパーキングが乱造されていました。 今ではそれが立体化してホテルが建設されるようになったのです。 |
ビジネスホテル建設で町家が破壊されていく |
そのような事態を、ただ手をこまぬいて眺めるだけでなく、新しい仕組みを作って運用することで、町家と家並みを救いたいと考え、一つ一つ法律や規制をクリアしていきました。 やがて町家の宿泊施設転用は一つのムーブメントになり、京都ではその後、数百軒以上の町家が宿泊施設として再生されました。 しかしこの数年で流れは逆行し、今は町家を残すより、小さなビジネスホテルを建設することの方が活発化し始めています。 足元の観光ブームが、町家保存から町家破壊へと、さらなる転換を促しているのです。 京都市にも古い民家の保存をうながす規制はあります。 しかし重要文化財級の町家であっても、それを守り抜くような断固とした仕組みにはなっていません。 たとえば2018年には室町時代に起源を持つ、京都市内でも最古級という屈指の町家 「川井家住宅」 が解体されました。 オーバーツーリズムが問題になる以前は、不動産業者は古い町家には目もくれませんでしたが、そこの土地がお金になると分かった途端に、町並みは不動産原理に則って、急速に破壊されていきます。 |
このまま地価が上昇するとコミュニティと町並みが崩壊する |
業者は通常よりも高い稼働率と、短い投資回収期間で宿泊施設の事業計画を作り、調達した資金をもとに、次々と町家を買い漁っていきます。 当然のことながら、事業で最も重視されるのは利回りであって、町並みの持続可能性や、住民の平和で健全な生活ではありません。 ただし非現実的な数字をもとに回していく計画は、投資ではなく 「投機」 です。 京都は商業地と住宅地がきわめて近いことが特徴で、それが京都のそもそもの魅力になっています。 名所に行く途中に、人々が日常生活を営む風情ある路地や町家が、ご近所づきあいというコミュニティとともに残っているのです。 しかし、地価の上昇は周辺の家賃の値上がりにつながります。 土地を持っている人であれば、固定資産税が上がります。 観光客は増えていても、京都市は高齢化が進んでいますので、住民はそのような変化への対応力を持っていません。 家賃や税金を払いきれずに引っ越す人が相次げば、町は空洞化し、ご近所コミュニティはやがて町並みとともに崩壊していくことでしょう。 観光客が増えて、彼らが落とすお金で地域が潤う、というのが京都市をはじめとする関係者の希望だと思います。 しかし現実をみるかぎり、残念ながら、既にそのような楽観的なレベルをはるかに超えている、と言ったほうが適切です。 「観光」 を謳う京都のいちばんの資産は、社寺・名刹とともに、人々が暮らしを紡ぐ町並みです。 皮肉にも京都は、観光産業における自身の最大の資産を犠牲にしながら、観光を振興しようと一所懸命に旗を振っているのです。 |
京都では冬なのに浴衣を着て歩く観光客が目につく。 なぜこんなことになってしまったのか。 京都在住の著名人は 「観光客向けに安っぽいものをつくる 『稚拙化』 は、やり始めると歯止めがきかなくなる」 と警鐘を鳴らす ――。
「ゾンビ化」 「フランケンシュタイン化」 する文化 |
伝統文化を守っていくには、とるべき選択肢が二つあります。 一つは、昔の様式やしきたりを、そのまま守っていくやり方を選ぶことです。 たとえば能楽は、この方法によって、数百年前の芸術様式を現代に息づかせています。 ただ、能楽の場合は成功しましたが、昔のままに伝えていくやり方は、時に文化を化石化させ、今を生きる人たちにとって無意味なものにしてしまう恐れがあります。 それは、生きているようで実は生きていない、文化の 「ゾンビ化」 だといえます。 もう一つが、核心をしっかりと押さえながら、時代に合わせて姿・形を柔軟に変化させていく方法です。 これは文化の健全な継承の形ですが、核心への理解がなければ、本質とは異なるモンスターを生む方向へと進んでしまう恐れがあります。 そのため、前段の 「ゾンビ化」 に対し、こちらは 「フランケンシュタイン化」 といえそうです。 中国の観光開発では、古い町並みを破壊し、そこに映画セットのような 「新しくて古い町」 を建設する手法がよく見られます。 一見すると歴史的な雰囲気がありますが、素材や形、作り方などは本物の中国文化とは、かけ離れたものです。 テーマパークのような 「新しくて古い町」 を見慣れた観光客は、自国文化であってさえ、本物とまがい物の区別がつかなくなります。 これがフランケンシュタイン化の持つ脅威です。 |
「冬に浴衣」 を着て街を歩き回る外国人 |
![]() そこで扱っている着物は、本来の着物に比べて色や柄が不自然に明るく、派手なものばかり。 生地もポリエステル製などの安っぽいもので、日本の伝統を継承して作られたものではありません。 装いにしても、冬に浴衣を着たり、浴衣なのにボリューム感のある華やかな帯と合わせたりと、奇妙で陳腐なケースが多く見られます。 本当の着物文化を知らない外国人は、このようなまがい物でも日本の伝統的な衣装だと錯覚し、喜んで着てはそのまま街を歩き回っています。 ホテルや簡易宿所の建設ラッシュの中、京都の建物空間にも、そのようなフランケンシュタイン化が忍びこんでいます。 ある新設のホテルでは、レストランの照明シェードに、逆さにした和傘を取り付けていました。 デザイナー目線で見た “和風” の新しい解釈なのかもしれませんが、この光景を見て、知り合いの京都人はぞっとしたそうです。 なぜなら京都の一部の地域には、家の中で傘を開くことを不吉な印として忌み嫌う文化が今も伝えられているからです。 |
日本人は 「着物」 や 「町家」 の継承を放棄した |
これらの現象は、日本の文化や伝統に対する観光客や事業主の無知、という表面的な問題だけではなく、根本に別の要因があります。 それはすなわち、当の日本人が自分たちの伝統の着物や、町家のような空間の継承を放棄したということです。 まがい物の着物や逆さの傘は、単純に 「デザイン目線」 から生まれたものではなくて、 「観光客を喜ばせるために、無理に創造した日本」 として、ほかならぬ日本人が作ったものなのです。 日常に本物が息づいていれば、まがい物はすぐに見破られ、安っぽいコピーが氾濫することはありません。 たとえば着物のレンタルも、京都で長い歴史を持つ呉服店が手がけているものだったなら、着物文化の伝承にきちんとつながったのかもしれません。 しかし、残念ながら現在の日本では、いたるところに 「文化の空白」 が生じてしまっています。 そして空白が広がった結果、それを喜ぶフランケンシュタインが入り込んでしまった、ということなのでしょう。 歴史的な文化や文化財を扱う人たちが、本来の意味合いを忘れて、観光客向けに安っぽいものを提供する流れを英語で 「dumbing down」、つまり 「稚拙化」 と呼びます。 |
神社の鳥居の前に 「ゆるキャラ」 がいていいのか |
なお日本で稚拙化が引き起こされる原因は、インバウンドの増加だけではありません。 たとえば国や地方自治体、公共機関などが作る 「マスコットキャラ」 や 「ゆるキャラ」。 熊本県の 「くまモン」 の大成功が典型例ですが、今や日本全国どこへ行っても、キャラクターの笑顔に迎えられます。 これはインバウンド向けというより、日本人を対象にした観光業の副産物といえるでしょう。 「ゆるキャラ」 は駅前や商店街、遊園地といった繁華街で出会えれば、にぎやかで楽しいし、効果もあると思います。 しかし歴史的寺院の山門や神聖な神社の鳥居の前、境内、美術品の横にまで 「ゆるキャラ」 を持ってくるとなれば、稚拙化に歯止めがきかなくなります。 日本での文化の稚拙化は、世界遺産に登録された場所でも、見受けられるようになっています。 京都の二条城ではオリジナルの襖絵を劣化から守るために、複製したものに差し替えて展示・公開しています。 京都市のHPによると、襖絵の復元・保存は1972年から 「二の丸御殿」 で取り組まれています。 室町と江戸時代の襖絵はくすんだ紙の色、金箔に表れた 「箔足(継ぎ目を重ねた部分)」、そして岩絵の具と墨の深い色合いによって、神秘的で瞑想的な雰囲気をまとっていることが特徴です。 その雰囲気があるからこそ、鑑賞者は美術品が伝えられてきた年月に思いをはせ、深い感興を味わうことができるのです。 |
「大きな土産物屋さんのよう」 と言われた二条城の襖絵 |
しかし近年、二の丸御殿で差し替えられた複製の襖絵は、岩絵の具の繊細な色合いが単調なものに、独特のくすんだ金色はキラキラ輝く派手なものへ置き換わっていて、それらが強烈なライトで明るく照らされています。 外国から訪れた私の友人を二条城に案内したとき、彼から 「ここは大きな土産物屋さんのようですね」 といわれました。 まさに二条城の 「稚拙化」 がもたらした感想です。 維持管理のためにオリジナルをはずし、複製に入れ替えるのは仕方ないことでしょう。 ただ、今の時代は幸いなことに複製技術が非常に発達していて、近くで見てもオリジナルかコピーか、見極められないほどすばらしいものができるようになっています。 たとえば大覚寺の宸殿にある襖絵も複製ですが、 「箔足」 が上手に復元されているので、にわかには複製とは分かりません。 二条城でも二の丸御殿の廊下にある菊の襖絵は、やはり 「箔足」 をうまく復元しており、この建物が持つ重みと調和しています。 そのような技術力があるにもかかわらず、近年展示された二の丸御殿の襖絵や壁画は、金色のラッピングペーパーのような質感でした。 |
文化財を管理する人の 「真髄を伝える義務」 |
稚拙化を防ぐには、管理者側の信念がまず問われることになります。 二条城でも、 「ここは将軍と大名が謁見した格式高い場所である」 という認識が管理者側にしっかり根付いていれば、このような複製のクオリティにはならなかったのではないでしょうか。 文化財を管理している人たちには、 「保存」 と 「維持」 だけではなく、次世代の日本人と訪日外国人に、日本文化の真髄を伝える義務があります。 予備知識のない観光客だからこそ、質の高いものを見てもらい、その 「目」 を底上げする努力が必要です。 幸い、オリジナルの襖絵は敷地内にある 「二条城障壁画展示収蔵館」 に保管されています。 二条城を訪れる人は、二の丸御殿を回った後に、こちらで本物を見ることをおすすめします。 観光には教育的な側面も含まれます。 分からない人たちに合わせて稚拙化を行うのではなく、最高のものを親切な形で提供してこそ、文化のレベルアップは果たされるのです。 |