![]() 11月4日付の神戸新聞に掲載されたのは、マンションの管理組合理事をしているという56歳男性による投書。 「住民総会で、小学生の親御さんから提案がありました。 『知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように決めてください』。」 という内容だ。 ほかの住民たちも、 「あいさつが返ってこないので気分が悪かった。 お互いにやめましょう」 と賛同し、 「あいさつ禁止」 が決定してしまったのだとか。 この紙面を、ある Twitter ユーザーが撮影し、画像とともに11月4日に投稿すると、8日12時時点で2万8000以上リツイートされるなど反響を呼んでいる。 Twitter では、 「うちの近所じゃ小学生が先手を打って挨拶してくる( 逆の発想らしい )」 「普段から挨拶し合って住民同士のコミュニケーションが取れている集合住宅は、空き巣などの被害が少ないんですけどね」 「挨拶も変わったんだなぁ …… w ただ、不審者はコミュニティー( 近所付き合い・挨拶・人の目 )を嫌うんで、むしろバリバリした方が防犯的には良いと思うんですけどね」 など、むしろ防犯上あいさつはしたほうが良いのではという声や、 「何と淋しい人生だろう。 お互いに笑顔で元気良く挨拶しようよ。 その方が気分が良いよ」 「挨拶するのは社会生活をするうえでの基本中の基本だと思うんですがね。 どうなっちゃうんですかね」 「『知らない人』 でも毎日挨拶を交わすことで、だんだん 『知ってる人』 になっていくと思う。 挨拶せずに逃げ回ってたら、 『知らない人』 はいつまでたっても 『知らない人』 のままだ ……」 と、世間の世知辛さを憂う声が続出。 一方で、 「する方もされる方も気分が悪い挨拶はやめる。 きわめて合理的でまっとうなことだと思いますよ」 と 「あいさつなし」 を支持する声もあるが、こちらはやや少数派のようだ。 防犯意識の高まりで、 「あいさつ」 というコミュニケーションの根本も否定されてしまうのだろうか? ちなみに挨拶禁止にするザマスって言ってる人は、マンション内で擦れ違っても全く挨拶してこない人間を 「声をかけてこない、この人は安全だ」 と認識するってことなんだろうか。 …… 病んでんな。 |
( 2020.01.15 )
「不審者」扱いされる父親、
前兆となった 「マンションであいさつしないルール」
誰もが通報されるリスク
公園で子ども連れの父親が通報される
……「他者の不審者化」の背景にあるものは?
令和の時代に入って 「ネット炎上」 の主役に躍り出たのが 「子どもと一緒にいる父親が 〝不審者〟 として通報される案件」 だ。 実は、平成の時代、マンションの住民同士の 「あいさつ禁止」 という前兆となる事件が起こっていた。 他人を自分たちに不安をもたらす危険な存在としてしか捉えられない 「他者の不審者化」 と、直接的な関わりを避けて行政に指導や懲罰を丸投げする 「コミュニケーションの権力化」。 立場が変われば自分が排除される側になるのにもかかわらず、多様性の尊重が叫ばれる時代にあって境遇の異なる人々への想像力が育まれにくくなっている。![]()
「通報したのはママさんグループだったみたい」
2019年8月、エッセイスト犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが、新幹線内で娘(2歳)をあやしていたところ、乗客に誘拐を疑われて警察に通報されたことが大きな話題となった。
劔さんがTwitterなどでその一部始終をつぶやいたことがきっかけで、 「育児する男性」 に対する社会の見方についての議論が巻き起こり、 「プチ炎上」 も引き起こした。
実はこの事件の2カ月前に、元プロ野球選手の落合博満氏の長男である声優の落合福嗣さんが、同じく娘(3歳)と公園で遊んでいた際に、警察官から職務質問を受けたことがあるとTwitter上でつぶやいていた。
福嗣さんのツイートは、異例の反響を呼んでネットメディアを中心に取り上げられた。 本人が以下のツイートで説明した通り、通報したのは公園にいた母親たちだった。
そもそもこのエピソードは、 「公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん」 に関するネットメディアの記事への引用リツイートとして書き起こされたもので、平成から令和へと悪化の一途をたどっている 「不審者の時代」 を象徴する投稿といえた。
「あいさつをしないように決めて下さい」
「不審者の時代」 のターニングポイントとしてあげられるのが、2016年(平成28年)に電子掲示板やソーシャルメディアで炎上を巻き起こした 「あいさつ禁止のマンション」 だ。![]()
議論の始まりは、2016年11月4日付の神戸新聞の読者投稿欄だった。 マンション内であいさつを 「しない」 ことがルール化されることについて、管理組合理事が 「世の中変わったな、と理解に苦しんでいます」 という困惑気味の意見が掲載された。
この投稿がTwitter上で拡散(記事の画像に 「これが最先端の日本の近所付き合いです」 と付言されたツイートだけでも2.6万リツイートもされた)されると、ネットメディアが取り上げ、テレビ番組が後を追った。
投書の内容は以下の通りだ。
住んでるマンションの管理組合理事をやってるんですが、先日の住民総会で、小学生の親御さんから提案がありました。
「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように決めて下さい」。
子どもにはどの人がマンションの人かどうかは判断できない。 教育上困ります、とも。
すると、年配の方から 「あいさつをしてもあいさつが返ってこないので気分が悪かった。 お互いにやめましょう」 と、意見が一致してしまいました。
「正しいか」 より 「リスクがあるか」
このような 「知らない人」 = 不審者と決め付ける感受性について、社会学者のジョック・ヤングは、その原因には不安があるとして 「予測不可能性とリスクの結びつき」 による行動様式とみなした。
近代社会になって人々の移動が頻繁になると、コミュニティーで生活の大半を過ごしたり、職場を中心にコミュニティーがつくられたりすることがなくなってくる。 そのため知人や隣人、路上でたまたま出会う人についての情報は、かつてより大幅に減少することになる。 人々はもはや、まわりにいる自分と同じ市民について、ほとんど何も知らなくなった。 それに加えて、多様化した社会に生活しているため、人々は他者の行動を予測することがほとんどできなくなっている。 この予測不可能性とリスクが結びつくことにより、人々は従来よりも他者にたいして慎重になり、そこから保険統計的な態度が生みだされることになる。
―― ジョック・ヤング『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男・村澤真保呂・伊藤泰郎・岸政彦訳(洛北出版)
ヤングは、それが正しいのか正しくないのか、よりも自分が何らかのトラブルに巻き込まれるリスクを考えてしまうようになっている現実があるとし 「保険統計主義にとって重要なのは、正義ではなく、被害の最小化である」 と指摘している(前掲書)。![]()
このようなスタンスは、親近者や部外者を問わずすべての人間に、その人間が自分にとって危険であるかどうかという 「犯罪リスク」 を与えてしまう。
「誰も彼もが犯罪者の可能性を帯びる」 ようになるのである。 刑法犯の認知件数が戦後最少を更新(2018年、警察庁調べ)しても、 「体感治安」 が悪化しているように感じられるのはそのような事情が絡んでいる。
直接、話さず 「行政へのクレーム対応」 で処理
そもそも、相手が本当に不審者か否かを知りたければ、面倒だと思わず直接やりとりをすればよいだけの話だ。![]()
たとえば、落合氏のケースであれば、数分程度の会話の中で仕事が一般的な会社員とは勤務時間の違う 「声優」 であることや、他の父親とは事情が違うことなどがすぐに分かったはずである。
しかし、 「ママさんグループ」 は、自分たちのテリトリーに入ってきた見慣れない親子を、すぐさま 「犯罪リスク」 のカテゴリーに区分するだけにとどまらず、声を掛けるなどの 「関わりそのものを拒絶」 し、かつ警察への通報という 「行政へのクレーム対応」 で処理してしまった。
「公園内に不審者らしい者がいるので、尋問して必要とあらば排除せよ」 と、自分たちは傍観者を決め込んだ上でコミュニケーションそのものを 〝丸投げ〟 したわけだ。 しかも、この一連の行為は 〝ごく自然に〟 行われたように思える。
疑わしい 「彼ら」 と会話すること、 「彼ら」 から視認されること自体が 「リスク」 となるからだ(=潜在的な犯罪者への監視)。 その 「リスクを代行するのが行政(公権力)」 であり、市民として当然の義務を果たしたというわけである(=潜在的な犯罪者への制裁)。
「恐怖と治安を快楽として消費」
これが他人を自分たちに不安をもたらす危険な存在としか捉えられない 「他者の不審者化」 と、直接的な関わりを避けて行政に指導や懲罰を期待する 「コミュニケーションの権力化」 の身もふたもないからくりの正体だ。
恐るべきことに、そのような振る舞いの奥底には 「恐怖と治安を快楽として消費しつつある」 心理が隠されている。 社会学者の芹沢一也氏は、それを 「ホラーハウス社会」 と呼んで警鐘を鳴らした。
「新しいコミュニティー」 は、よそ者が入り込む隙などはなく、 「高度な排除」 の下に成り立っている。
治安管理は子どもから大人まで、全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメントだ。 それは、街の安全というスローガンのもとに形作られる、 「新しいコミュニティー」 のあり方にほかならない。 治安への意思が住民たちを結束させ、しかもそこで行われる活動が日々の 「生きがい」 という、何にも替え難い快楽を与えているのだ。
―― 芹沢一也 『ホラーハウス社会』 (講談社+α新書)
何か不穏な動きがあればすぐに警察を呼び出し、犯罪の恐れを通じて 「仲間感」 を生み出そうとする。 日常的に不審者の影におびえることによって、辛うじて 「内部の結束」 が保たれるいびつな構図である。
しかも、そこには 「快適さ」 を乱すノイジーな連中は、 「罪を犯さなくとも犯罪者と同様の脅威として現れる」。 つまり、新幹線内で泣き叫ぶ子どもをなだめられない親(とりわけ父親が!)は、その時点で 「犯罪的」 とされるのだ。
「自分たち」 も不自由を強いられるのに
先の新幹線内の事件では、通報した者が本当に父親を誘拐犯と疑って110番したのか、単に嫌がらせで110番したのかで意見が分かれていたが、どちらも警察の介入を要請した時点で、父親の存在を 「犯罪的」 とみなされたことに変わりはない。 実際に刑法上の犯罪行為が実行されているかどうかは事の本質ではないのである。
とはいえ、これは結局のところ、自らに呪いをかけることになる。 不自由を強いられる対象には 「自分たち」 も含まれているからだ。 今、住んでいる場所を離れて、別の町に行こうものなら、誰もが 「侵入者の立場」 となり得る ――。
自分の自由を守ろうとすると他人の自由を制限してしまう。 逆に、他人の自由を守ろうとすると自分の自由が制限される。 自由と安心に関する現代的なジレンマについて、社会学者のジグムント・バウマンはこう看破した。
わたしたちはこのジレンマをうまく解決に導くことができるし、その責任を担っている人間の一人であるということにもっと敏感であらねばならないだろう。
自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い。
―― ジグムント・バウマン著、奥井智之訳 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 (ちくま学芸文庫)
「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、あいさつしないように決めて」 ──。 神戸市のマンションで、小学生の保護者が提案し、マンション内のあいさつが禁止になったという地元紙への投書がネット上で賛否を呼んでいる。 神戸市では平成26年、路上で声をかけられた女児が殺害される事件が発生。 同市教育委員会はあいさつ運動を進めつつ防犯指導も行う。 あいさつと防犯について、明石要一千葉敬愛短大学長と、セコムIS研究所の舟生岳夫氏に見解を聞いた。
── | 投書を読んだ印象は |
明石氏: | 意外だった。 周りから孤立している 『ひとりぼっち社会』 がここまで進行したのかと驚いた。 |
── | あいさつ禁止が決まる背景とは |
明石氏: | 子供を含めた生活空間として、いとこら親族を含む 『身内』、顔や名前を知っている地域社会などの 『世間』、知らない人の 『赤の他人』 がある。 昭和時代までは赤の他人の範囲が狭かったが、現在のネット社会は周り全てが赤の他人に拡大し、 『世間体が悪い』 といった社会規範が通用しない。 戦後の大きな変化はいとこが減り親族が減ったこと。 自分の核家族のみに身内が縮小し、地域社会が消え、社会規範が消えた。 |
── | 少子化で親族の増加は難しい |
明石氏: | 私は 『斜めの関係』 を持った地域社会の復活や再構築を提案している。 今は親子や学校という縦の関係と、クラスメートという横の関係しかないが、かつては縦横の関係を補完するいとこや地域の子供会などの 『斜めの関係』 があり、人間関係が豊富で防犯上も機能していた。 あいさつ禁止は、ひとりぼっちを促進している。 |
── | 子供にどう教えたら |
明石氏: | 逃げることを教えるより、 『あいさつしなさい』 と教えてほしい。 あいさつは社会への扉を開く初めの一歩。 大人はたとえ子供からあいさつが返ってこなくてもあいさつを続けるべきだ。 近年はあいさつ文化が消えつつあり、出社時退社時に何も言わない会社もあると聞く。 だが、業績の良い企業や集団はあいさつや返事がきちんとできるという傾向もある。 |
── | あいさつをきっかけとする不審者に不安を持つ保護者もいる |
明石氏: | あいさつに続く甘い言葉や、 『親が急病』 といった嘘に注意するよう教えればよい。 また、保護者は子供が生まれたら地域デビューをしてほしい。 保護者がひとりぼっちになってはいけない。 親が地域であいさつをすれば、子供は幼くてもその相手が安心な人であると識別できる。 |
── | 都市部など地域社会の再構築が難しい地域ではどうすべきか |
明石氏: | 地域の夏祭りをやめる傾向があるが続けるべきだ。 祭りを中心に地域住民の顔や名前を知っている状態がつくれる。 昔ながらの祭りである必要はない。 クリスマス会やバザーなど、さまざまなイベントを催してほしい。 地域でイベントを仕切れる人材を育てていく必要もある。 近くに大学や専門学校があれば協力してもらうのもいい。 |
── | 大人のふるまいが大事 |
明石氏: | 大人が自らあいさつして子供にその姿を見せるしかない。 いとこや親族に代わる新しい身内は地域社会。 地域社会で交流することで、子供の世間が広がり人を見る目ができる。 人と交流しなければ人を見る目も育たない。 |
── | あいさつ禁止のルールについてどう感じたか |
舟生氏: | 子供向けの防犯セミナーを行っている立場としては、あいさつをしない社会は怖いと言いたい。 だが最近子供を見守るボランティアの現場から 『子供にあいさつしたら逃げられた』 『不審者扱いされた』 との話をよく聞く。 見守りがやりづらくなり、逃げられれば気分も悪いので、あいさつや見守りをやめようという声が出ている。 こうした風潮は子供の安全のためにならない。 あいさつと子供を誘うような声かけとは区別をしなければならない。 |
── | あいさつ禁止は保護者の提案がきっかけだったが、その背景は |
舟生氏: | 子供の連れ去りは声かけがきっかけで起こることが多く、保護者もそうした知識をもっているからだろう。 あいさつがきっかけで、 『ゲームしよう』 『かわいい子犬を見せてあげる』 と巧みに誘い、子供がついていくことを保護者は心配していると思う。 |
── | 学校ではどう指導しているのか |
舟生氏: | 約10年前に奈良、広島、栃木で小学生の女児が殺害される事件が相次いだ。 当時は私が講演に行く学校でも、知らない人から声をかけられたら逃げるように指導しているというところが多かった。 絶対に被害に遭わないという意味で、 『あいさつされても逃げる』 というのは、一つの方法かもしれない。 だが最初から人との関わりを全部断ち切ってしまうと、見守ってくれる人なのか、近所の人なのか、不審者なのか分からない状況に陥る。 今は学校でも、 『地域の人とはあいさつしましょう。 ただ、知らない大人についていってはいけない』 という指導になってきている。 子供の危険回避能力を育てることが重要だ。 |
── | 子供にはどう教えればいいか |
舟生氏: | 知らない人はもちろん、知っている人でも、ついていかない、行動を共にしないことが大事だ。 その線引きをしてあげてほしい。 他には、 『道を教えて』 といわれたら、 『あっちだよ』 と指さすのはいいけれど、 『この地図を見て教えてよ』 などと近寄ってきたら離れる。 知らない人と距離を保てる力も必要。 困ったときは 『大人を呼んでくる』 『分かりません』 と言って逃げていい。 車からの声かけや腕を捕まれそうになれば、 『助けて』 と声を上げる。 ただ単に逃げるという指導では判断できず思考停止になるだけだ。 |
── | 保護者が日頃から気をつけることは |
舟生氏: | 子供がその時々で判断できるように、家庭でもいろんな場面を想定して話し合ってほしい。 声をかけられたら逃げなさいというのは、親も簡単だし、地域の大人も子供に声をかけなくていいなら楽かもしれない。 だが、それが子供の能力向上を阻害する要因になることも考慮しないといけない。 |
![]() 家で昼間寝ていれば、竹ざお屋や警察署の広報車にたたき起こされた。 たまりかねた哲学者の中島義道さんは、 「音漬け社会」 との闘いを始める。 その顛末をつづった 『うるさい日本の私』 は、ベストセラーになった。 何が騒音なのか。 人によって定義は異なる。 東京都は昨年、条例を改正して、子供の声を騒音の規制対象から除いた。 それでも、 「子供の声がうるさい」 などと、保育施設にクレームが寄せられ、トラブルが絶えない。 保育園の新増設を阻む大きな要因になっているのも、 「静かな住宅街」 を望む近隣住民の反対である。 夏の風物詩である盆踊りでも、周辺住民への配慮から、騒音対策が必要になってきた。 音楽を電波で飛ばし、踊り手が持参した携帯ラジオとイヤホンで音を聞く、 「無音盆踊り」 を開催している地域もあるそうだ。 とうとう、百八つの煩悩を払って新年を迎える 「除夜の鐘」 まで、騒音の仲間入りをしてしまった。 昨日の社会面の記事によると、東京都小金井市の寺では、近隣住民から苦情を受けて、一切鐘を鳴らさなくなった。 苦肉の策として、大みそかの昼間に鳴らす寺も出てきた。 そのうち寺が、希望者に電波で鐘の音を流すサービスを始めるかもしれない。 中島さんの本が出て、20年近くたった。 「音漬け社会」 への反発の声が、高まっているのは確かである。 もっとも街を歩いていると、耳障りな雑音はむしろ増えているようにも感じられる。 不思議である。 |